シングルマザーの家庭で育った私。
私に父の記憶はありません。
私は父の温もりを知りません。
私と父の写真だけありません。
でも、私は父を尊敬しているし 父に会いたいと思います。
私の幼少時代は、それはそれは貧乏で新しい服や靴を買ってもらうなんて滅多になく
スーパーに行っても、お菓子をねだることなんてほとんどありませんでした。
私が保育園の年中になるころから、母は掛け持ちで朝から夜中まで働くことも増えて、兄妹で留守番することも増えました。
たまに母がいる夜はとにかく嬉しくて晩御飯がおいしく感じました。
夕方一度帰宅した後、準備をして出かける母にしがみつき
「お仕事行かないで」
と泣き叫んだこともありました。
母は
「それならあなたが働きに行きなさい」
と強く振り払って出かけていました。
私はいつでもアパートの階段に響く母の足音を聞いていた記憶があります。
何をするにも、ほとんど口出しされることなく
まんまと勉強せずに過ごした私の成績表を見ても
笑っているだけの母。
いつもテストの問題用紙に落書きした絵を見せると
「へぇ~上手じゃない」と笑ってくれた母。
図工や作品で賞状をもらっても、兄たちの賞状で壁は埋め尽くされていて、貼ってもらえなかったけど父の仏壇に置きながら話しかけていた母。
給料前になると、
近くの焼き鳥屋さんに行って頭を下げ
肉や野菜の切れ端をいただき、野菜炒めを作ってくれたこともあります。
大きな中華鍋に皆で箸を突っ込み、ごはんと一緒にかき込んで
とてもおいしかったのを覚えています。
小学生に上がると、留守番も慣れて夜の時間も兄妹で過ごせるようになりました。
水曜の夜だけ”てんやもん”(今でいうデリバリーです💦)を取ることが出来て
近所の定食屋さんに母が注文してくれていました。
私は大概カツカレー。
家でもカレーが登場すると一週間はカレー続きになるのに
”てんやもん”もなぜかカレーに惹かれカツが楽しみでなりませんでした。
それを兄妹で食べながらみる「ドラゴンボール」は最高でした。
中学になると、いろんな意味で誘惑されあっちこっちふらふら。
でも受験時期になると私は進学よりも働いたほうが我が家にとっては効率がいいのではないかと考えるようになり、受験しないと言い張ったのを覚えています。
結局押し切られ、間に合う高校に滑り込み。入学となりました。
その後アルバイトに夢中になり、結果高校中退。
働くことで我が家が安定するならそれでよかったし、自分が買いたいものは自分で買えばいいと逆に嬉しかったんです。
働いて出るお給料の半分は母へ渡し、家が円滑ならそれでよかったし、何より母の笑顔はとても嬉しいものでした。
その後私は二度も大きな借金を肩代わりすることになり、90年代末の恐ろしい取り立てに悩み苦しみ、死ぬかもしれないという恐怖を味わうこととなったわけです。
3つの仕事を掛け持ちして、朝から晩までくる借金取りをかわしながら毎日を送りました。
呆然とするほど苦しみを実感しながらも日々
「いつかこの生活は終わる、必ず終わる」
と胸の奥で思っていたことは明確に覚えています。
それからなんだかんだで借金も終わり、徐々に生活が安定しました。
ここで私が伝えたい事は
私の苦労話をダラダラと書きたいわけでもなく
私のおかげで生活が安定したと言いたいわけでもないのです。
待望の女の子であった私を抱きしめることなく他界した父の事を
知る由もないのに
父の事を「尊敬している」と私が言えるのは
母や兄や祖母や叔父が
父を尊敬していたから。
そして、どんなに苦しい生活をしようと
どんなに条件のいい人との再婚話があっても
決して再婚せずに母が頑張れたのは
「お父さんがいいから」
その想いの強さがあったから。
こんなに深い愛の中、私は生まれたんだと実感出来ていたんでしょうね。
私が母のために強くなったのは
母が私の幼少期に「強さ」をちゃんと示してくれたから。
私たちのために踏ん張っていたことがちゃんと伝わっていたから。
私には元々なんにもありません、型にはめれる物を持ち合わせていません。
だけど父と母の愛は十分すぎるほどもらって生きてきました。
前に母とお正月に二人で過ごした時に、お酒を飲みながら話したことがあるんです。
「お母さんが死ぬときは湿っぽくならないでね~やっとお父さんに会えるんだから」
とても穏やかな顔をしていました。
私は、父を知りません。
私には、父親像がありません。
でも今、我が子を通して毎日一つずつ父親を感じています。
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